yzb’s diary

仕事と禅と病気(ガンサバイバーです)

脳はなぜ「心」を作ったのか

脳はなぜ「心」を作ったのか「私」の謎を解く受動意識仮説 (ちくま文庫)

脳はなぜ「心」を作ったのか「私」の謎を解く受動意識仮説 (ちくま文庫)

新聞で紹介されていたので買って読んでみた。書かれている事をばっさり要約すると、自分が気づいている自分(自我?)は本当は存在していなくて、それは仮想的に作られたもの。存在するのは、見る、感じる、考える、etcの小さな仕事をするエージェント(本文では小人と表現)のみ。エピソード記憶をうまく管理するための方便として、自我が作り出されているという説明。著者が主張する自己とは小人があれこれ働いた結果を観察するだけの存在であり、さらに自己の存在自体が仮想なのだということです。

半分は実験に基づくデータで、半分は著者による思考実験の結果です。ですが、、これまで読んだ仏教の本で、自分は存在しない、、とか、心は五感で作られているだけ?といった、哲学的、あるいは形而上的な考えを科学的に裏付けるのに近い内容であり、自分としては、やっとここまで科学も来たのかという印象で感慨深いです。また、自分の位置づけを地動説で捉え直す絵もあって、多分悟った人の頭の中も似たようなものなんだろうと思えます。(推測ですが)

ただ、、自己は仮想というのはまぁそうかもと思えますが、自己に決定権は無く結局は小人(エージェント)の言うなりというのは本当にそうか?とも思えます。そもそも自己は存在しないから決定もなにも無いとはいえますが、、仮想的にであるが自己が存在すると見なすなら、仮想の自己が決定権を持つこともあるのでは?とも思えるのです。表現が難しいですが。。本当に仮想の自己が決定権を持たないのなら、葛藤、道徳といった事に意味が無くなる様な。。

と書くと、葛藤とは良心の小人と、悪い心の小人が綱引きをするのだ、、と反論されそうですが。。 多分、、遠くから見ていると自分という確固たる存在があるように見えるが、それを虫眼鏡で拡大すると、ひとつの塊ではなくて、小人が寄せ集まって、自分の意識を作り出している。。

言って見れば、これはTVのようなもので、いろんな映像が映ってるけど、近づいてみると、RGBの粒々で構成されていて、リアルに存在するのはRGBの粒々だけ。でも遠くからみると、花や木々が美しく映し出されている。。それは在るともいえるし無いとも言える。

般若心経で、「在るけど無い」というのもそういうことなのかもしれない。TVに映し出される映像は在るともいえるし無いとも言える。無いとは言えないし、在るとも言えない。。

そんなおぼろげな虚像?に振り回されるなよということなんだろうけど、、やっぱり自己というヨリシロが無いと言われると不安でしょうがない。。足元に突然大きな穴が開いたような。。。さらに言うと、人間だって顕微鏡で見たら細胞の寄せ集めなので、細胞の総体として人間がいるけど、リアルに存在するのはどっちなんだということか。。??ちょっと違う??

とにかく、、自己とは、ソフトウエアということでしょう。ハードとしてニューロンや電気パルスが観測されるけど、総体としての自己とは仮想的に存在して、観察されるけど、実態はない。。

といろいろ考えてしまう一方で、文庫になる前の単行本が出たのは6年前のようですが、全然話題になっていないというのはどういうことだろうか。それは帯にあるように、「謎が解けた?!」というある意味無責任なコピーにあるように、SFと捉えられているからだろうか。。仏教界から、よくぞ書いたと応援があってもよさげと思えるが。。そういう問題ではない。。?

■追記 2011/2/5

読んだあとやっぱり腑に落ちずずっと考えていた。アホな頭で考えるのだからたいした結論にはならないのだけど、、自分というか自我あるいは、自分自身が、小人の言いなり、あるいは小人の結果でしかないというのはやはり結論として極端と思える。もし自分自身が単なる結果だったら、なぜ自殺をするのか? 小人にとって存続こそが第一優先のはずで、自我が小人の言いなりだったら自殺はありえないのでは? 確かに自分というのは小人が映し出す映像、虚像というのはまぁ納得ですが、映像に過ぎない自分であっても完全に言いなりなのではなくて、やはりどこか主体的な判断する部分があるのでは?と思える。小人が作り出す結果としての映像だけど、各小人は作り出された映像を同時に見ているというか。。
一部(小人)が全体(自己像)でもあるような、フラクタルというかホログラフィックというか、小人が作り出した自己という映像を小人もそれを見ているのでは、、そんな気がする。
脳のニューロンの一つ一つ、あるいはある程度の集まりが小人なのだとしたら、脳をめぐる脳波あるいは一連の信号が、自己という虚像だろう。虚像は信号としてニューロンを伝わるので、各小人が同時に自己(虚像)を見ているというのもありでは。。
とにかく、「自己とは小人の活動の結果でしかなく自由意志は存在しない」という結論では、努力も意思(志)も善意もなにもなくなるのでは。。欲望というか欲求というのは小人の結果というのはかなり納得ですけど。

そもそも、この本ですっきりしない理由として、小人のレイヤーと、自己のレイヤーを同じ枠組みで議論しようとしていることに無理があるのではないかろうか。小人(神経レベルの活動)と自己(物理活動として捉えきれない意識のレベル)は、そもそも土俵が違うのでは?あるいは、小人と自己のレイヤーにもうひとつレイヤーが挟まっているか。。

自我や自己意識は何によって構成されるのか?というと、やはり、小人(ニューロンやその集合)が発生させる電気信号なわけですけど、、それはやっぱり一番下の信号レベルで自己という抽象物を捉えるからそうなるのであって、、そもそも異なる現象を同じ土俵で議論するからおかしくなる。。。

いろいろ書いたけど、意義深い本であることは変わりなく、コペルニクス的に、自己と小人(神経組織)の位置づけをクルリと反転させたのはまったくそうだとは思えますが、得られた結論(=自己とは小人(=ニューロン?)の活動した結果の観察者)にはちと納得がいかないのであった。。。あぁ疲れた。


「猫草の日記」様から星もらったけど、これは何かお返しをした方がいいのかどうか。。ちとはてなの仕組み(作法?)が分からず。。