yzb’s diary

仕事と禅と病気(ガンサバイバーです)

結局自分の心なんて思い通りにはならないと思う

子供と喧嘩していて、なんでこんなに怒ったりするのか?と自分の感情を持て余す。普段坐禅のようなことをして自分の心(気持ち?感情?)を整えているつもりでもいざ怒り心頭の局面になると、やっぱり思いっきり腹を立てて言いたいことを言ってしまう。怒りのあまりすべてに投げやりになる。そう思うと自分の心なんて、コントロールできるなんてのは思い上がりもいいところで、決して思い通りにはならないし、制御下に置くことなんて無理なのではと思う。
坐禅(のようなこと)をしていて、意識的に心を変えよとすること自体、間違っているのではいか?? 心や気持ちというは実は結果であって、結果を変えるには原因をまず変えないといけない。原因って何なのか? 記憶や五感への刺激、体の姿勢や呼吸、内蔵や体調、考え方の癖、そういった諸々が複雑に絡み合って、結果として心や気持ちが作り出される(多分。いろんな本を読んだ結果)。だから、、坐禅とかして気持ちが変わったと思っても表面上変わったつもりになっているだけ。本来結果として表れる心は本質的には変わらない。
突然ですが、、左の関数式は自分の理解している、感情のモデルで、感情とは結果であり、五感(外部からの刺激)から入ってくる出来事をどう解釈したか?の結果として感情が決まると思っています。

しつこくコーヒー抽出モデルで説明。。心を生み出すきっかけはお湯。。出会った物事や言われた事、見かけた事柄、、五感からの刺激。
刺激がどんな味になるか?はコーヒーの粉自体で決まる。これは自分自身の考え方や癖、過去の経験や記憶、生き様、価値観に相当
心や気持ちはコーヒー自体。。。お湯とコーヒーの粉で抽出された結果。
人は生きている限り、常に五感で刺激を受けてお湯を注ぎ続けられる。その結果、どんな味にせよコーヒーは抽出され続ける。外界からの刺激(お湯の温度や水質)はあまり選べない。抽出される味もままならない。自分でどうにかできるのは、、コーヒーの質。これが大事では? 結果は入力が変わればどんなにも変わりうる。出た味に注意は必要だけど、入力が変われば味も簡単に変わるのだから、、必要以上に味(感情)にとらわれるべきでなないのでは?
酸味が強ければ強いように、苦味が強ければ強いように味わって飲んでしまえばいいのでは??味は大事だけど、あくまでも結果であり、移ろいゆく曖昧なもの。こだわってはいけないと思う。

このように感情はとは結果なので、自分の気持ちを変えるには、五感への入力を変えるか、解釈を変える必要がある。。と。入力を変える例としては、、旅行に出かける、美味しい物を食べる、買い物をする等。解釈を変える方法としては、自分の至らなさに気づき自分を変えていく。。等。安定した気持ちを保つには、自分にふりかかる出来事をコントロールするのはまず不可能なので、それをどう解釈するか?の部分を普段から整える必要があるというわけです。

上記のモデルに従えば、最終結果の心を変えようとするのではなく、喜怒哀楽に落とし込む解釈部分を変えるべき。解釈部分の構成要素とは?? 体の姿勢や呼吸、内臓、食べ物、記憶、考え方の癖、価値観、等々。でも自分の力で変えられるものとそうでないものがある。せめて自分の力で操作できる、姿勢や呼吸、日々の所作を整える。それぐらいしかできないのでは? そういった自分でできることをやって、受け身の自分として心が整うのを待つしかないのでは??

気持ちなんて、入力が変わればまたすぐに変わるわけで、そんな曖昧なものを重要視したり、こだわるべきではないと思う。もちろん、、自分の感情を押し殺したり、偽ってもまた別の問題(心身症とかでしょうか)を引き起こすので、負の感情であってもまずは一旦受け止める必要はあると思います。また一方、腹立っているとか怒っているという負の気持ちは体に悪影響を及ぼすので早めに解消するにこしたことがないですが。。一番まずいと思うのは、生み出された怒り等の感情が新たな入力となって、y=f(x)がどんどん回る場合。怒りが怒りを生む負の連鎖となるわけで、、こうならないように、怒っている自分に気づき、ラベル付けして連鎖を止める必要がある。。でもそれは難しい。