yzb’s diary

仕事と禅と病気(ガンサバイバーです)

心と禅のモデル(主観です)

池谷氏の本を読んで、心と禅のモデルを考えてみた。今後見直して修正するために一応記録。
左の絵は心のモデル。。無意識領域と意識領域からなる。池谷氏によると、普段の行動に無意識からの働きかけが常になされているとの説明があった。無意識とは、意識できない(だから無意識なんだけど。。もうちょっというと、 何を考えているのかすら知ることが出来ない意識)心の奥底にある意識と思っていたのだけど、どうもこれはちょっと違っていて、いろんな局面で意識領域に働きかけているのが現状らしく、意識領域に侵食している絵にした。

多分健康的な状態とは、無意識と意識の領域がバランスがうまく取れていて、心全体(意識領域も無意識領域も)適当に遊んでいる(ルーズフィットというかあるに任せるというか)状態なんだろうと思う。

一方、いろいろ考えすぎたり、ストレスで一杯一杯になっている状態というのは、意識領域が加熱してしまっていて、また、いろんな〜〜べきとか、〜〜ねばならないといった自分を無理強いすることで無意識領域に圧力をかけてしまっているということではなかろうか。さらに、無意識領域からの働きかけもあまり受け取っていない状態ではなかろうか(聞く耳持たずの状態。構ってられないというか。。これは自分の推測)。図で表したのが左の図。。仕事とかいろんなストレスに追い立てられている状態。ある程度無意識に任せておけば結構うまくいったりするのだけど、意識領域ではなんとかしなくては!と過度に思ってしまい、気持ちが空回りしてうまく物事が進まない状態。。

で、坐禅とは何か?を自分の解釈でモデル化すると以下の2点になると思っている。。

  • 禅の世界で言うところの無になるとは、、多分、自分の意識領域の動きを止めて(クールダウンして)、無意識から湧き上がってくるいろんな情報をよく受け止めよということではないかと思う。(そんなに参禅していないので、そうではないかという推測)
  • あと、「非思量、不思量底を思量する」という概念がありますが、、意識領域から無意識領域の境界面をよくウオッチすることではないか?と思う。。。本当かどうかは分かりません。そんな気がするというだけ。境界面をよく見ると何が得られるのか??それも分かりません。そもそもそんな事ではなのかもしれません。*1

*1:こう書きながら正直、坐禅しながら意識を自分自身(特に無意識)に向けて集中してしまうのはちと怖い気もする。ひたすらただ無心に坐っていれば気持ちよく終われそうだが、自分の中の何かに向かって集中するのは正直怖い。。