yzb’s diary

仕事と禅と病気(ガンサバイバーです)

自然と繋がっている自分という存在、今居る事の有難さを感じられるか?

以前、ネットワークインフラの仕事をしていて、兵庫の地方の回線を切り替える作業のため、現地に行ったことがった。作業前はリスクやトラブルを想定してかなり緊張もするのだけど、電車の乗り継ぎ時間がかなりあったので、駅を出て近くを少し歩いた。とても自然が豊かな場所だったので作業前の緊張も消えてしまい、自然の中では自分の事や抱えている心配なんてどうでもいいじゃないの?という気持ちになった。

また、半導体の組織で働いている時も結構きつくて(自分のサラリーマン人生(現在20数年目突入)で一番ハードだった時代)、その時は寝るのも嫌だった(明日が来るから)。でも通勤の途中、ところどころで自然を感じることがあって、季節になると植えられた木に花が咲いたりしていた。その時思ったのは、自然を見て何も感じられなくなったら仕事を辞めるべきと思った。

ふり帰って考えると、人は一人で生きてるのではなくて、(もちろん人との間に生きているのだけど)さらに、掘り下げると自然の中の一員であって、この自然によって生み出された存在だということ。大いなる自然の子供であるというか。。自然に繋がっている自分を自覚できれば多少の苦労があってもそれに負けて死ぬ事は無いという実感であった。

これは今でも変わらない思いで、いろんな本を読んでいると、生かされている自分を思えという表現がある。生かされているとは、何に?? 自然という意見もあるし、宇宙という意見もあるし、さらにはもう少し宗教的に、サムシンググレートという意見もある。どっちにせよ、自分が生きているのは、自分が気づかないとても貴重なあり得ないほどの偶然と、ありえないほどのありがたさの中で自分がいるのだということをなんとかして認識しないといけないと思う。だけど、自分を含めた凡人にはそんなありがたさを身にしみて分かることはまずできない。(魚が水を認識できないようなもの。。?? でもトビウオとか鯨なら海面からジャンプするから可能だ)

いろんな苦労して初めて、自分の置かれているありがたい状況、自分が気づいていない、今この世にいることのありがたさをほんの少し気づける、、そんなことなのかもしれない。

■追記

生きているそれ自体が有難い事、それを第一に考えて日々生活すべきというのは多分仏教とかでは繰り返し言われてきた事なんだろうと思います。でもそう言われてすんなり納得(腑に落ちる)というのはよほどの人と思われ、普通の人はまぁそうかもしれんけどだから何?という受け止め方と思います。今回仕事の苦境(自分の力のなさが第一要因ですが)を経験して、その教えが真理かどうかは分からないけど、もしそうなんだと考えると、気持ちが楽になって現状をなんとか進める事ができたというのは経験上事実であり、少なくとも今おかれた自分の状況と矛盾しないのだから、そういう考えもありなのかも。。という感じです。逆説的ですが。。そう考えると春に咲く花々や芽吹く木々にも神々のおしるしというか、見えない秩序の仕組みがきっちり働いて、そして我々もその秩序の元であり得ない偶然で今ここに存在させてもらっているのだ。。ということになります。。。