yzb’s diary

仕事と禅と病気(ガンサバイバーです)

仕事の苦痛が無くなると今度は不機嫌になる(覚書+反省)

この3連休は当初予定していた休出がなくなって、休んでいる。仕事もどうにかこうにか進んでいる。仕事を家に持ち帰っているとはいえ、ひとまず安泰とは言える。本当だったらゆったりした気持ちで休みを過ごせそうだけど、そうはいかない。なぜか?子供との関係がおかしくなっている。
子供も今年から中学でだんだんと難しくなる年頃だ。特に長女は難しい。どうも自分を小ばかにする。もっとも、たいした事ない親父なので、いろんな面でばかにされてもしょうがないのは重々承知だけどやっぱり腹が立つ。仏教的な教えでは他人に腹を立てるのは自分の修行が足りないのは分かっているし、腹を立てても何も良いことがないけど、やっぱりそんなに簡単には自分の心をコントロールできない。
仕事とか大きな問題が気になる時は、子供の言動とかにまぁ腹を立ててもそんなに後を引かない。すぐに忘れる。一方、他に気になることがないと、いつまでも自分の中で、腹立ちが残る。結局ひとつの心配事がなくなっても、また別の問題が起きるだけのこと(自分の心が引っぱってくるというのが正しいだろう)。
だから、、この10年ぐらいずっと仕事を通して、器の小さい、技術の低い自分が、いろんな事で悩んだり思い煩ったりしてきたのだけど、それがある意味仕事だから良かった。なぜか?自分は技術系の仕事だが、技術系の仕事は純粋でルールも明白だ。しかもある意味白黒はっきりした、フェアな事象である。これがもっと人間関係というか、人が全面に関わった問題だったら、もっと大変な辛い事になっていただろう。。結局何かに心を奪われ、それに悶々とするしか生きられない自分がいる。自分の心を一杯にしてきた心配事がなくなっても、また別の心配事か、あるいは煩わしい事がやってくる。あるいは自分の心が自分を一杯にする問題を見つけて持ってくる。結局そういうことなのだ。特に自分は産業医からも依存症と言われているから、何かに依存していないと落ち着かない。それが仕事であったり、テクノロジーであったり。。一人では立っていられないのだ。そんな生活スタイルを何十年と続けてきたのだ。そしてそれはそう簡単には変わらない。あるいは、変えるには何かとてつもないエネルギー、あるいは、犠牲、損失を必要とするのだろう。そういう自分を良く知って折り合いつけて生きていくしかないのでは。無理に変えて失敗して半死状態になるよりは。。
昇華という概念があるように、依存症を突き詰めれば何か光が見えてくる。。。のかも。。

思うのは、何かにしがみついたり閉じこもっているからいけないのでは。しがみつく、閉じこもるとは、、ある考え、あるスタイル、あふれるモノ、記憶、価値感、自宅、パソコンの前、、簡単に言うと、自分は自分の脳内を掘り下げて満足を得たいと思っている。だけどそれは自己満足でしかも誤ったアプローチなので変えなくてはならない。

自分の心の中を掘り下げて満足をしようとするのではなくて、外に出て、自然や人と交わり、その中で生きてくべきなのでは??だから、、外に出なくてはならない。外に出て、自然の中に自分を置く。もって帰った仕事が全然捗らなくても、出かける。そしてあとから仕事をする(そんなんでいいのか?)

これ(大半は仕事)ができていないから、あれ(外出、買い物、etc)を我慢する。。それではいかんのではないか。これができてなくても、やるつもりだったことはやる。。
本来別々の事象なのだ。それを一つと考えるから自分を縛ってしまう。。のかも。。

うーんよく分からん。よく分からんが、脳内活動で、心の空洞を埋めようというアプローチは絶対に間違っている。それは坐禅を通して何かを改善したいというアプローチが間違いであるかのごとくである。

あるべきは、外に出る、自然や人と交わる。その中で何かが変わり、何かを生み出す。。そういうことなのだ。家やパソコンに閉じこもったり自分の脳内活動をいくら掘り下げても正しい満足は得られない。。多分。少なくとも自分の場合は。。(思想家や哲学者ならともかく、自分の器では自分への掘り下げアプローチ(脳内活動の範囲)で自分の闇を埋めることはできない。。多分。。どうせ間違った道に堕ちていくだけ。。だから全身で外界の刺激と向き合わねばならない。そこに闇を照らすものがある。。はず。。)

だから、、
いつかは会社を退職するだろう。(金銭的な問題はさておき)仕事の苦痛からは逃れる。だけど、多分自分の心は別の苦痛を見つけて運んでくる。そのときは外に出るべき。いろんな人と出会って自分が変わっていく中で問題を突破していくべき。自分が取りがちな脳内活動志向のアプローチであるで問題は解決されない。