yzb’s diary

仕事と禅と病気(ガンサバイバーです)

仕事がしんどい、でも考え方を変えよう

かつては凹んで力が出ずトイレ(大の方、すなわち個室)でじっとするしかなかった程だったプロジェクトもなんとか終了して、その後2年ぐらいは平穏な日々であった(一定のルーチンワークというか)。そんなダレた日がいつまでも続くはずはなく、また新しいプロジェクトが始まった。まだ課題も大きくなくスケジュールもオンスケででかい問題はないのだけど、それでもやっぱりしんどい。人にいろいろお願いしたり、メンバとの調整や、あるいは、自分の狭い了見と方針が一致しないとか、まぁ何かしら原因はあってしんどい。だけど、、本当にしんどいのは実は仕事自体ではなくて、自分の周りの出来事を解釈する自分の心の動きが作り出すもの。今回は久しぶりのプロジェクトなのでしんどいのもあるし、投げやりになったり、心がすさむ程であった。

一方、お茶のお稽古をやってる時間はお茶の点前に集中して心が静まり留まる。今ここに集中できる。また、周りの人も良い人なので、自分も丁寧に振る舞い、建設的、前向きになれる。心がしんどくて荒む自分、感謝して前向きになれる自分、そんな極端な心の振れを体験すると、しんどいというのは自分の心の持っていき方の癖ではないかと思った。本当はそんなにしんどくないのに、あるいは、本質的にはしんどいことではないのに、未経験なことやまだできていないこと*1を考えるとしんどくなる、、それは自分の癖ではないかと。あらかじめ心をしんどい状態にしておくことで、仕事を通じて出くわす問題に対して大きな痛手を受けないようにしているのではないか。

生まれてから今までそれなりに機能してきたからそういう心の使い方もありなんだろうけど、本質的にしんどいことではないのにそういう心の使い方は誤りではないか。さらにいうと、自分という生きている時間、今ここの生き様に対して、先を想像したしんどい気持ちで汚す冒涜なのではないか。本来は生きている今を感謝して喜びとともに生きるべきでは。

ではどうあるべきか??本質的には心は無(無色、ニュートラル、喜怒哀楽のいずれでもない)であるべきでそこにまず心を置くべき。喜怒哀楽のどちらにも偏りを持たせず、ニュートラルな位置から物事を捉えて判断すべき。無であるがゆえに、防御できず問題に対してもこれまで以上に負の方向に振れてしまう。だけど、、そこはまた心の力でニュートラルに戻す。どうやって??ていねいに息をすること、自分の体を感じること、今、ここに集中することでいつまでも負の気持ちや痛手をひきずらないようにする。

かつて無とは動かない心かと思っていた。これでは感動も感謝もできず無味乾燥なロボットのようではないか?と思っていた。多分それは違っていて、、心はダイナミックに喜怒哀楽に振れて良し。ただし、本来あるべきニュートラルに戻ること、今、ここに徹して心はおおいに振れるがまたニュートラルに戻ること、そして、今、ここの何かに気づきおおいに振れてよし。ただしまた元の位置に戻る。。それが大事ではないか。

*1:仕事だからまだできていないことを必要な時間をかけて検討や合意形成を進めるのはあたりまえ