yzb’s diary

仕事と禅と病気(ガンサバイバーです)

坐禅している時について

自分は理系で頭でっかちなので、腑に落ちないとなかなか行動に移せない。坐禅には「不思量底を思量する」という、考え出すとどうにかなりそうな命題というか課題があります。自分なりに落ち着かせるため無理やり答えを出したのですが、それは、「言語的にいろいろ考えるのを止めて、思考停止した時の状態を味わい尽くす」ということではないかと。。 論理に長けた左脳と、感覚が得意な右脳で構成されると言いますが*1、どうしても論理的思考の左脳に重心を置いてしまうが、左脳の動きを止めて、その時に感じられる感覚(多分、有難さで一杯の状態)を十分感じ取りなさいということではないか?と思うのです。あるいは、知性を止めて、どのような本能が見えてくるのか感じ取りなさいでもいいです。とにかく、生きるのに便利、あるいは必要な思考パターン(自分と他人、勝ち負け、損得、優劣etc)をすべて止めて、見えてくる本質を見抜けということではないか?と思うにいたりました。
また、禅師が言っておられる、「悟りを得たとしてそれをどう生活に結びつけるのか?が大事」というのは、ある意味、右脳だけだと、幸せ一杯かもしれないが、それだけではやっぱり生きていけない。理想だけではなく、生きていくための方便や日常の矛盾とどう折り合いつけるか?一旦止めた論理思考の左脳をどう働かせるか?が重要ということではないかと思います。十牛図でいうなら、牛に乗ったとして、里に戻ってどう生きるか?もまた難しいということでしょうか。。

*1:ひょっとするとこの時点ですでに理学的ではないかも