yzb’s diary

仕事と禅と病気(ガンサバイバーです)

離見の見、または、、オートマチックに動ている自分を傍観する自分

何か課題に出くわした時、普通は一杯一杯になる。なんとか解決策とか出口を見出して対応する(どうにもならない場合もある)。そんな時、自分は自分ではないというか、自分の中でフェーズが切り替わって、何か普段ではない別人格の自分がやってるような気になるときがある。

そんな時、自分ではやってるつもりだが本当は何もやっていなくて、結果だけを見ているのでは?と思う時がある。または、自分と言う存在は誰かから預かっていて、そのうちの一部だけが自分自身のような。

島耕作の作家である弘兼憲史氏が、課題に直面した時、「落ち着いて、さぁ自分はどう動く?というぐらいの気持ちでいる方がいい」と書いていて、最初読んだ時はイマイチ分からなかったが、半分の自分がオートマチックに動いていて、残る半分の自分は見ているだけなのではないか。だとしたら、余計なことをせずに、もう一人の自分に任せておけばいいのではとも思う。オートマチックな自分とは、言い換えると潜在意識から湧き上がって動ている自分で、見ている自分というのは自意識のある自分なのかも。

あまりじたばたせず、どうする自分??と自分に問いかけて待つぐらいがいいのだろうか。。そんな受け身で答えは出るのだろうか。。先の事を心配しすぎて動けなくなるぐらいなら、「さぁどうする自分?」と静かに問うぐらいがいいのかもしれない。