yzb’s diary

仕事と禅と病気(ガンサバイバーです)

坐禅は無になるのではなく有になるのではないか

またまた軽薄な気づきなのだが、メモをする

我流で坐禅を何十年とやっていて、気が向いた時に坐っていた。主に仕事がしんどい時。坐禅とは、「無になること」とよく書かれていて、あれこれ考える気持ちを静めて心を無色透明な波立たない水面にすることと思っていた。確かに坐ると心が静かになって、しんどい気持ちも自分で想像して作り出していると気づく。自分の解釈で、心は普段外界からの刺激や過去の記憶、明日の心配ごとで、心の中が常に喜怒哀楽でジェットコースターのようになっている、それに対して坐ると自分の体の感覚や自分の無意識とより深く対話できて、心と体のバランスが取れると解釈していた。自分の中では、無意識が英知で、自意識は混乱の原因と思っていた。

が、、、これは自分の誤解ではないかと思うに至った。

というのも、坐禅すると心が鎮まる、普段の生活だと、あれこれ感情や情報が自意識に流れ込んでいて、それに反応していれば生活が進む。刺激・反応に任せていれば、ジェットコースターの毎日が自動的に進む。喜怒哀楽のジェットコースターだからしんどいけど、刺激・反応に任せるので判断や分別はいらない(最低の人間としての道徳はまもらないといけませんが)。ある意味オートマチックにあっという間に日々は過ぎる。

一方、坐禅で静かな状態だと、自分自身を自意識が握っているので、刺激・反応のオートマチックではなく、刺激・気づき・判断・行動になる。普段の生活パターンに対して、気づきと判断が入る。いろんな刺激にまず気づいて、判断を行わないと行動が始まらない。だから、オートマチックではなく、マニュアル操作。いちいち、気づき・判断が求められるのでめんどくさい、行動が遅くなるし、なかなか一日が終わらない。

喜怒哀楽の流れに身を任せて刺激・反応だけのオートマチックに生きるのが普段の生活で、それに対して、刺激・気づき・判断・行動に変えるのが、坐禅での気づきなんだろう。多分。オートマチックな日々には自分はほとんど居ない。一方、禅的生活では、自分を割り込ませて、気づきと判断を入れ込む。喜怒哀楽のオートマチックから、自分で生きるマニュアル操作に切り替える。

喜怒哀楽の感情は多分潜在意識から自意識に流れ込んでくる(ここは想像)。流れ込んでいることに気づけなければ、容量の小さい自意識(想像)は簡単に感情に流され、刺激・反応に進んでしまう。受けた刺激を「反応」ではなく、「気づき」へとつなぐ。つなぎ変える練習が坐禅なのでは(想像)。

だから、、「無になる」というと、自意識を空にすると解釈できるが、多分自意識は普段から空っぽなんだろう(多分)。本来空っぽの自意識に怒涛の喜怒哀楽を流し込んでくるのが無意識(多分)。無意識は自分を動かしてくれる動力炉なんだけど、無意識は常に自意識にいろんな情報や感情を常に流し込んでくる*1*2。無にするのではなく、自意識を取り戻すのが坐禅。動力炉である無意識から、喜怒哀楽や情報が常に大量に流れ込んでくる蛇口を絞ることで自意識が何かで溢れている状態から、一旦空にする。蛇口を絞るのが坐禅の時間。自意識を空にして、自分で自分を掴んで、刺激・気づき、判断・行動の状態にしてから、日々の生活に戻る。

坐禅は無になるのではなく、いろんなもので詰まっている自意識を空にして、自分を自分でつかみ取る時間。刺激・反応だった毎日を、刺激・気づき・判断・行動に切り替える時間、無になるのではなく、自分で自分を掴み、自分が居ると気づく、有の時間ではないか

 

■追記

禅とは、刺激・気づき・判断・行動では?と書いていたけど、ついさっき映画を見ていて感動して泣いていた。全くもって、刺激・反応なのであった。しかしそれは不幸ではなく、ごく普通のこと。しかも、映画とか音楽に浸っている時は、刺激・感情ではないか?誰からも非難されることではない。それに、気づき・判断を入れながら映画鑑賞や音楽鑑賞ができるはずがない。だったら、、気づき・判断を日常にはめ込むべきって間違っているのだろうか。。

*1:考えたくもない明日の仕事が気になってしょうがないというのも多分無意識から湧き上がってくると思っている

*2:休みの日に考えたくもない明日の事を考えてしまうのは無意識からの感情、だから、「考えすぎないようにしましょうね」、というアドバイスは、どうしたら考えすぎなくなるのかを伝えない無責任な言葉と思う。あえて言うなら、「不安な気持ちになった時、無意識からの不安な気持ちの湧き上がりと気づいて、「無意識からの不安な感情」というラベルを貼って、無意識に対して「いつも頑張っているね。心配なんだね分かっているよ。」「明日の事は明日だよ。今日は違うよ」と返事してあげましょう」。。か??