深夜作業に向け移動中の電車の中、瞑想(風)をしてみる。
なるべく考えないようにしようとしてもいろいろ考えてしまう。
座禅をする心構えとして、
「何かを得ようとして座禅してはならない」とあるのだが、だったら、ではなぜ
座禅するのか?が分からなくなる。意味の無い事をしているのか??
(何かを得ようとするなという表現は、方便だと思うのだが。。)
多分、ただ、座る。それだけ。我々もただ居る。それだけ。
それだけのことなのかもしれない。
と考えると、今いる自分たちも、居ようとして居るわけではなくたまたまの偶然。
そして、今居るのに根拠はない。居なくてはならない必然性もない。自分が生まれて
きた根拠もない。
(親が生んだのはそれはそうだが、生まれてきたのは、
ひょっとすると自分ではなかったかもしれない。)
本当にたまたまの偶然で居てるだけ。居る必要もない。
そう考えると、当たり前の様に今があると思っているが、それは大きな間違いで、
今居ることの有り得なさを痛感してしまい、まさに、般若心経の、あるがないと
いう状態ではないか?と思ってしまう。
そうこうすると、あまりの普段の常識とのギャップに段々と頭が痛くなってきた。
ある種、昔みたいに、また自我を突き破りそうになるというか、自我の薄い所に
来てしまうというか。。
知らないままにいろいろ雑念に惑わされながら生きてる方が実は楽なのかもしれない。。
ヘタに瞑想なんかして、普段の生活とは違う価値観を垣間見てもそれがその人に
とって幸せになるのかどうか。。
多分心身の土台ができていないと、普通の生活ができなくなるのではないか。。
そんな気がする。
いわゆる、方便を使い分けることができないと、この世の中で生きてゆけないのでは?