yzb’s diary

仕事と禅と病気(ガンサバイバーです)

目的を持って坐る事が間違っているということ

以前、禅の特集をしたとんぼの本(やさしい「禅」入門 )で、南 直哉禅師が「何かの目的や功徳のために座禅するのは間違っている」と述べておられて、目的もなく坐る行為をするということが全く理解できなかった。なぜかというと、目的なくてなぜ行動が取れるのか?全て何かの目的があるから行動するのではないか?と考えていた。
その考えはずっと続いていたけど、最近分かった事は、、

  • 坐るという行為はそれ自体が正しい行為で、単に正しい行為をしているということ。そこに目的も何かを得ようという意図もなく、ただ正しい行動をしているというだけのこと。
  • 目的を持つというのは、いわゆる個人の欲求であり、無になることを目指す禅で、個人の欲求をきっかけに行動を起こしたり、坐禅の結果を判断するのは間違っているということ。
  • 座禅という行為や結果は、そんな個人の狭い了見の解釈を超えたものであり、目的や、結果、成果という普通の生活の尺度で判断すべきではないということ。

座禅という素晴らしい行為に対して、目的や成果といったせせこましい世俗にまみれた視点で価値判断するな、、ということなんでしょう。

自分自身座禅してどうか?というと、、正直、朝坐ることは最近全く無くて、電車の通勤時、立って呼吸を整えて、気持ちを静めて、無心になるようにしているだけです。それだけですが、終わると、気持ちがすっきりしたり、何かに気づいたり、発見があります。そういう意味では結果を実感しています。結果を期待せずという事と矛盾するかもしれませんが、座禅のパワーや、やる意味があるとは思います。でもそれはちょっとしたご褒美というか、子供にあげる駄賃のようなもので、本来はもっと無心になってやらないといけないんでしょう。