yzb’s diary

仕事と禅と病気(ガンサバイバーです)

野崎観音(滋眼寺)で開かれている坐禅会(座禅会)に参加

野崎観音(滋眼寺)で開かれている坐禅会に参加しました。毎日日曜日にやっておられ、8時に開始。本堂で40分間坐ります。この日は約30人ぐらいの方が参加されていました。

今回は初めてだったので、禅師から、どう坐るのか、姿勢や呼吸の方法を簡単に説明を受けます。「厳しくはやってませんので、しんどくなったら足を組みなおしたりしてください」と言って下さったので、かなり気持ちが楽になりました。

坐禅の開始を知らせる鐘が2回鳴ります(準備と開始の2回)。鐘の合図と共に照明が落とされ、すこし暗くなり落ち着いた雰囲気になります。最初は、結跏趺坐で坐り始めましたが10分ぐらいで足が痺れてきて、とうてい続けて坐っていられないと思ったので、半跏趺坐に崩して坐りました。するとかなり楽になりました。坐り始めて、折り返しの20分で警策をいただきます(打っていただく時の作法を自分が分かっておらず、禅師もちょっと戸惑う気配が)。普段家で坐禅の真似事のようなことをやっていましたが、時間が気になってとうてい40分も坐ることができませんでした。お堂で大勢の方と一緒に坐っていると、それほど長いと感じることもなく坐ることが出来ました。8:30にお堂お時計が一つ鳴ったので残り10分か。。と思っていたけど、これが余計な雑念で、最後の10分は非常に長く感じた。後で禅師にそのことを話すと、始まりが少し遅かったので、終わりも8:45くらいだったとのこと。。余計なこと考えるからこんなことに。。

坐禅が終わると、坐禅とは何か?を簡単にお教えいただいた。お話の中では、普段の生活では○○のため、、と目的を持って行動している。これは「○○のため」という目的に自分が使われているようなもの。普段の生活に溢れている○○のためといったしがらみを一旦忘れて、ただ坐ってみる、40分という時間だけど、心と体を一つにしてみる、、退屈を楽しんでみる、、と言う風に考えてみてください、、といった趣旨でした。ちなみに、、滋眼寺は曹洞宗の禅寺で、流派としては只管打坐ということでしょう。ただ坐れと。。

で、坐ってみた感想としては、、自分の中に心棒ができるというか、外部からの刺激で自分が存在(行動、判断)するのではなくて、、自分が自分の中で存在しているというか、、、ある程度外界からの刺激を遮断した中で、坐っていたので、自分の存在が少しはっきりしてきて、心があるべき所に坐るというか。。そんな感じです。

月の初めは食事会があるとのことで、今日はその日にあたっており、参禅されている方と一緒に、ちゃっかりご飯をよばれました。

毎週なんて無理ですが、月に一度ぐらいは定期的に参禅したいと思います。


■ご参考URL
野崎観音 慈眼寺 http://www.nozakikannon.or.jp/

■追記(090718)
坐禅が終わった後も影響が残っていて、なんともいえない心の安定感とか、人生の道筋が見えた!とか妙にどっしり構えていたいたど、それも1週間も経つと消えてゆき普通の雑多な毎日(欲望、苛立ち、不満etc)に埋没している。あの時の心の安定感(大いなるものに自分を委ねるという感じでしょうか)は良くも悪くも宗教の持つ力という気がして、坐禅はやはり宗教なんだと再認識した次第。。(言いたいのは、坐るという行為と宗教を切り離しては考えられないということ。。仏教は子供の頃からの宗教なんでそんなに違和感はないですが、これまで禅や坐禅とは、宗教から離れて、概念(考え方)や坐るという行為のみ切り出して捉えていたので、ちょっと戸惑っているというか、宗教という立場で坐禅を捉えないとやっぱり見えないのかなと思ったり。。)