yzb’s diary

仕事と禅と病気(ガンサバイバーです)

連休最後、仕事の課題が気になってしんどいので坐ってみる

祝日にお休みをもらえるのはありがたいけど、休みが終わって荷物をまた担ぐのがしんどい(下ろさなければいいじゃないか??それはそうだけど。。金曜日の夜ははしゃいで下ろしてしまう。。)。
しんどいので坐禅にすがって心を落ち着けてみる。普段だともう少し気持ちが落ち着くはずなんだけど、どれだけ坐っても、仕事が気になる心の重さがどうにもできない。心を見つめ続けて、自分の中から出てきた言葉が、、「しんどい原因が実際にあるのだからしょうがない。それが自分なんだからしょうがない」というものだった。。あぁ冷たい(自分が)。坐っても救われない。そんな簡単に解決したらそれはそれで危険かもしれないが。自分としては坐る時は何かを得るためではなく、あくまでも受け身でいようとは思ってるのだが。。すがって坐ることがすでにおかしいかもしれないけど。まぁ自己矛盾の塊なんで。。
どれだけ坐ってもしんどさを消すことができないと思いつつ、坐禅をといて、雑務に取り掛かると、心が多少元気になっているのを感じた。心配事は残っているけど心が少しだけ充電された感じというか。

名越康文氏が書かれた本で「自分の心の修行がどれだけ通用するのか、この世の苦労を通して試していると考えてはどうか」といった説明があった。自分は我流だけど禅を勉強したり坐禅をしていて、それがどれだけ本物であるか(本質をついているか)をこの日々のしんどさを通して検証すると考えていいのではないかと思う。全然自分を救えなかったら、それはまったく役になっていないということだから。禅が日常生活に役に立たないと無意味なのか?(禅とは日常生活をよく過ごすために存在するのか?多分それは違うだろう)とか言い出すとまたワケわからなくなるのだけど、、自分の心をとれだけ維持・管理できているか?というのは、心を深く掘り下げる禅とも矛盾しない方向性だとは思う。