yzb’s diary

仕事と禅と病気(ガンサバイバーです)

結局最後に残るのは。。

これまで無い頭と妄想でいろいろ考えてきた。また仕事がしんどくて、しんどい状況でどうやったらこなせるか(単に耐えるだけでもいいし、やり過ごすだけでもいい。。とにかくつぶれない事)を考えてきた。で、結局最後に得られた結論は、、自分にとってリアルなのは、呼吸するということ。それだけ。新聞でも読んだけど、「空(おてんとう様?)の下で息していられたら死ぬことは無い」というのがあって、これは自分でも本当に腑に落ちたのだが、結局自分に残されたものは、息をするということ。それだけ。それはリアルに存在する。また、息をするといってもわざと深くとかゆったりととかする必要はなく、自分が息をしていることをよく感じて、横で寄り添うというか、いい息ができるようにエスコートするというか。。とにかく、息がしたいようにさせてあげる。よこから余計なことをしない。そっと横に居させてもらう。。そんな感じ。
息をしている自分を自分が横で見ている、、その状態でさえあれば大丈夫。自分を見失っている時は、自分がどんな息をしているのか?すら見えない。そうではなくて、、息をしている自分を横から見守る。

あとできることとしたら、、姿勢を正す。これは座禅でも特にそうですが、正しい姿勢にする。多分スピリチュアルに言うと気が流れるようにとか言うのだろうけど、まぁそんなことは置いといて、とにかく正しい背骨の形にする。

この息する自分を捉えて、横で見守る、、あとは、できるだけ姿勢を正す。自分にできることはこの二つしか無いのではないか、あるいは、この二つだけがリアルで、あとは妄想というか、どうでもいいというか、

心はどうなんだ?と思うけど、喜怒哀楽は多分人を迷わせる。多分持っていい心というのは感謝とか喜びだけなんだろう。スマナサーラ氏も、怒りを捨てよといい続けているし。。

あとあえてあるとしたら、意思、、これは自分でもよく分かりませんが、、意思の力というのもどう生きるかに存在するように思う。。でも、、意思って、自我というか、自分が自分が、、の束縛とどういう関係になるのかわかりません。正しい意思だったら大丈夫だけど、有名になりたいとか、金持ちになりたいとう意思だったら多分うまくいかないと思われ。。意思の質というか意思がどこから来ているのかが問題なのかも。

で、最初の問いである、幸せということだけど、、息をしている自分にそっと寄り添っていい息ができる。。それがやはり究極の幸せではなかろうか。。ほとんど仙人のようだけど。美味しい物を食べる、成功する、目標を達成する、、それも確かに幸せだけど、かならずうまくいくとも限らないし、一度成功して幸せを得てもそのうちまた薄くなってきて、もっと強い達成感がほしくなる。やっぱり刺激なんです。そういのは。刺激による幸せは、もっと、もっととなって、ある種中毒にもなる。社会的には尊敬されるけど、果たして満ち足りていると言えるだろうか。(当人が幸せなんだったら余計なお世話なんでそれでいいです)

自分の結論としては、、息をしている、いい息をしている、それを横で寄り添って見ている。。それが究極の幸せと思える。自分の息を横で見ていられる、その心の余裕があり、平静がある、、それが幸せ。。まぁできたら、朝のすがすがしい時とか、山の空気とか、、いい雰囲気でいい息ができればさらにいいけど、それはまた、刺激の世界に入っているので注意が必要。。 息をする自分を見つめる。。そんな前では、仕事のつまづきとか、うまくいかないプロジェクトとかまぁそんなのはどうでもいいんです。(本当だろうか。首になったりして。。そんなこと会社で宣言してしまったら社会的には落第だな。いくらいい息しています。といっても家族が食えなくなったらやっぱり不幸だ。。だからやっぱり方便というか、どこかで妥協は必要だ。)