yzb’s diary

仕事と禅と病気(ガンサバイバーです)

般若心経を少し学んだ気づき

仕事が辛くてどうしようもなく、こうなったら心を落ち着かせる方法、手段があれば、何でも手あたり次第に試そうと思い、般若心経を少しづつ覚えることにした(失礼な動機かもしれません)。とりあえず、般若心経を全部覚えるのが今の生きる目標といった具合。般若心経の意味を解釈してくださっているサイト(最後にURL付けます)があり、それを読みながら少しずつ経典を覚えています。
般若心経には、色即是空(現実は空で、空は現実??)とかいう事が書かれているのは知っていましたが、現在の自分の理解で簡単に言うと、、全ての物事は縁起とか集合で成り立っていて、移ろいゆくのである、変化しないものはない、という感じの内容です(すみません、今勉強中なので、この程度の理解です)。
今まで、仕事がしんどい、日曜日の夕方にはもう倒れていて、自分の心をどうやったらいいのか分からない程だったのだけど、、”辛いと感じる自分の心もまた自分の力でどうにかできるものではなく、移ろいやすく不確かなものである”と捉えてみる。すると確かに、心は時間経過とともに、喜怒哀楽をあれこれふらふらしながら常に変化している。言ってみれば、天気の様なもので、晴れている日もあれば雨の日もある。
自分の心、それ自体も、移ろいゆくもので、自分ではどうにもできない。今のしんどいという気持ちも変化する。だったら、今しんどいという気持ちを受け入れて、手放せばいいのでは??と思うに至った。
しんどい、苦しんでいる自分を、「今自分は苦しんでいる。でもすぐまた移ろいゆき変わる」という風に客観的に観察すればいいのでは?心も一枚磐ではなく、集合体であやふやなものだから(多分)、辛い苦しいと感じていても、またそのうち何かの拍子で浮かれるかもしれない。だから、苦しくてもあまり深刻にならず(苦しいという自分の気持ちを100%信じずに、慌てず、まずは受け止める。けど、辛い辛いと騒がない)、今は大雨、でもまた晴れる、そういった感じで、心を認めつつもどっぷりと浸らず、距離を置いて見守るのがいいのではないか?と思うに至った。
般若心経のまだ前半(色即是空、空即是色の所まで)読んだだけなので、また考えが変わるかもしれないけど、、、自分の心もまた根拠のない移ろいゆくものと捉えたらいいのでは?との考えが得られた。
間違っているのかもしれないけど、そう考えると、気持ちが楽になったので、それでいいのではないかと思ってます。言わば、、自分の力で自分の心をコントロールできる(コントロールしなくては)と思うことが思い上がり、自分の心は自分の力ではどうにもできない。さらに、自分自身や自分の心は集合体で移ろいゆくもの。だったら客観的に見守るのみ。自分の心に対して他人行儀で無責任。

■ご参考URL
http://www.mitsuzoin.com/nanda_hannya.html
「もっとい不動 密蔵院」様

■最近の気づき
今の自分がしんどいのは、忙しすぎる、課題が多すぎる、自分の能力が足りず次々とさばけない、課題を抱えてしまうetc..
まぁそれはそうなんだが、、そもそもの問題として、今のプロジェクトが無茶苦茶だからでは?と思うに至った。自分の事を棚に上げて、、それはそうなんだが、、やってもやっても終わらない。仕事というか、湧きあがる課題。自分の能力を超えている。自分の力不足ももちろんだが、そもそも滅茶苦茶なプロジェクトだからではないか。。。と。どんな人でも滅茶苦茶なプロジェクトに投げ込まれたら超人でない限り、キリキリ舞いして参ってしまうだろう。。心の歯止めがないと。
あぁ多分そうなんだろう(違うかもしれないが)。多分プロジェクトが滅茶苦茶なのだ。。と自分に言い聞かせる(単なる自己保身かもしれないが、しんどくなって仕事ができない状態になるわけにはいかない。自分のやれる範囲でやる。それ以上は無理。。)