yzb’s diary

仕事と禅と病気(ガンサバイバーです)

無理を承知でこんな考え方はどうか

いろいろあってしんどい。人との関係で頼まれていることとかあって断りづらい。歳とって、人との繋がりがなくなると逆い寂しくなるのだろうけど、いろいろ用事を任されすぎるのも辛い(茶道関連で)。しかもよく怒られる。先の事を考えるとしんどくなる。

無理を承知で考え方として、、相手の言ってることは単なる音、それを聞いている自分。重い心。。音をどう解釈するかは自分次第。確かに相手は怒っているけど、、聞こえてくる声や自分の心は曖昧なもの。音という空気の振動、心という見えない物に自分はかまいすぎているのではないか。あるかどうか分からない心が傷つくなんてのも間違った心配なのか。。本来存在しないのに、あると思って、あれこれ考えすぎてしまっている? だからおかしくなる?

先々の事を考えられるのは人間の知恵で、先読みすることで前もって準備ができて助かることも多い。だけど、、考えすぎて心配が膨張してしんどくなる。今がおろそかになる。これは本末転倒だ。存在するかどうかあやふやな物に囚われるのではなく、今、ここにいる自分の体、体から来る情報に心を向けるべきでは。

今の自分の体にもっと集中して、心の容量の半分は体に向けて、残りの心に隙間をあけて、心に風を通す。風通りの良い心の状態にしておく。やっぱり最後は心になってしまうのか。。