yzb’s diary

仕事と禅と病気(ガンサバイバーです)

心がけている事

そもそも小心者でチキンで根性なしでヘタレなので、仕事が辛い*1。さらに、、仕事以外で頼まれ事(製作記事執筆)とか、茶道部の世話役とか、なぜかは分からないけど用事がやってきて、、ぼーっとしてると用事の波に乗っかってしまう。

できるだろうか?とか、間に合うだろうか?とか考えるとしんどくなるので、先の事は考えないようにしている。しんどくならないように、これまで何度も自分に言い聞かせてきた事、、すなわち、、先の事は想像なので妄想、妄想は悪い方にどんどん膨らむ。膨らんで今の自分を押しつぶしてしまう。今の自分が動けなくなる。そんなことをは自分もそうだが、周りの皆も(仕事の神さんも)望んでいない。だったら先の事は考えない方がまし。もちろん、仕事のできる人は、先々読んで課題を先回りして潰すのだろうけど、それは仕事のできる人の話。普通の人間(さらにチキンな臆病者)はやるべきではない。先の事は心配しない。

だから、、考えるべき心配事とは、今、自分の体のある場所で起きてる事だけを考える、ということにしています。今、体のある場所で起きてる問題だけを考える。体の無い場所の心配事は想像で妄想だから相手にしない。

以前生きてることはあり得ないほどありがたい事のはずなのに、生きてる実感なしにしんどいしんどいと言いながら生活している自分とは何なのか??と考えていたけど、、生きてる実感とは、結局、常に体を感じているか次第という思いに至り、体を感じながら生きているか、どんなふうに息をしているか感じているか?をまず意識することで、生きてる実感(ありがたさ)の上に日々の生活が送れるのではという思いに至った。だから、自分の心の半分は、体のこと、息のことに注力すべきではないか。心配事や考え事は、心の1/4ぐらいで対応しとけばいいと*2。それ以上心(心的エネルギー)を使っても結果は多分変わらない。そもそも、課題を自分の力でこなしているのか? 実際は体とか無意識とか潜在意識の働きでオートマチックに処理されるのに、気持ちが勝手に心配だ心配だとぐるぐる回っているだけなのでは?と思うに至った。かなり無責任な感じですけど。

だから、、自分の気持ち(自分の心のフォーカス)は、体の動きを邪魔しないように体に意識を向けるべし。心のエリア(心のフォーカス)の1/2ぐらいを体に向ける、心配事は心の1/4ぐらいで対応するのに留めておく。あとは、体と潜在意識が処理してくれるのを横で見守る。。ちなみに、1/4残ってますが、心に風を吹かせるために何もない部分を1/4開けとき、風通し良くすべきではないかと。

そんな無責任でいいのか??自分でも分からん。けど、、本当に仕事や私生活の課題を自分の意識で解いているのか??自分の力なのか??それとも無意識や潜在意識や、斜め上からやってくるひらめきなのか*3??自分の心がすべて見えているわけではないし、種々の現象を正しく認識しているはずもないので、、客観的に合ってるのかどうか分かりません。

でも自分は56で段々と残り少ない人生なので、あまりキリキリ自分を締め上げず、自分の体の向かいたい方に寄り添って生きてみようと思うのでした。そんなええ加減な態度だったら無気力社員とみなされ、会社クビになるかもしれませんが。。

50代になるとウツのリスクも高まるとのことで、、しんどくなるのは避けねばなりません。(眉間にしわ寄せたりして)表面上は忙しそうに振る舞いながら、、心の中では、自分の体にフォーカスを当てて、何がしたいのん?俺の体よ??と問うてるような、そんな生き方を目指そうとしています。

*1:プロマネが別に居るのでその分楽だが。それでもしんどいのはしんどい

*2:パパラギという本の中で、サモアの酋長が「西洋人は考える病に侵されている。常に何かを考えている」と述べたと書いてあって、当時は意味分からんかったけど、少し分かるような気がする。先を考えるべきではなく今を味わうべき

*3:セレンディピティとか