yzb’s diary

仕事と禅と病気(ガンサバイバーです)

この世を「What A Wonderful World」と心から思えるか?

レイチャールズ氏が、渋い声で、「What A Wonderful World」と歌ってるのをCMで見たことがあります。いろいろな苦労がある中で、そう言う風に心からポジティブに人生を肯定できるのはすばらしい事だと思います。自分はまだまだ修行が足りなくて無理ですが。
でも、、この前に書いたように、「幸せは頭の中に(だっけか)」という本で示されるように、自分の気持ち次第で世の中はどのようにも見えるということは事実だと思います。さらに思いますに、、幸せは頭の中なのではなくて、体ではないかと思います。すなわち、、過去や未来ではなくまさに今を感じる、風や気候、自然を感じる、、、いろいろ感じるセンサーは体なわけで、体の感覚を活かさないと幸せは感じられないのではないかと思うのです。あれこれ心配ばかりして、頭を使いすぎて、妄想で一杯になって体からの情報を感じられない様になっていると幸せも感じられないのでは?と思います。

だから、、課題や難局にあって、頭を駆使して、よく考えるというのはそらそうなんですが、課題に向き合っている自分を支えている体にもっと意識をしないといけないのでは?とも思うのです。よく言われる、「生きていればどうにかなる、、」というのは最後に残るのは自分の体(最後の砦?)なのだという意味で、本質的にそうなのかもしれません。。

■追記(100327)「What A Wonderful World」と思えるということとは。。
気づいたのですが、人生いいよなと思えるというのは、苦労とか困難な局面にあっても、自分自身を第三の目で客観的に捉えられるかどうか?だと思うにいたりました。すなわち、、苦しみにどっぷりはまっている自分と、それをちょっと遠くから見つめる自分。遠くから自分を見つめるまなざしは、自分を慈愛?の心で見つめるものであり、よくやってるよな俺。。クスっ、と、いくら状況がハードでもそう思えることが大事ではないか。
言葉を変えると、生きているということのありがたさがまず根底にあって、それに比べれば、生きていく上での苦労なんてたかが知れていると思える人は、人生いいよなと思えるということだろう。生きてるありがたさは誰にも平等にあるはずで、それをどれだけ感じられるか?が、苦労を乗り越えられる原動力になれるかではないか。生きてるってすばらしい、だから、見えるもの、、人や自然、そういったものが素晴らしいと思えるという歌なんだろうと思える。
きれい事や理想論かもしれないが、本質はこれだと思う。(それ以外は多分目先のまやかし、、あるいは、手軽な分かりやすさでごまかした一時しのぎ)
生きてるって素晴らしいよな、人っていいよな(もちろんいろいろあるけどさ)と思えることを学校でも子供たちに教えて欲しいと思うのであった。自分も子を持つ親だから、箸の使い方がどうだとか、TV見すぎとか、洗面所に髪の毛落ちてるぞとか、細かい事をグダグダ言ってるんじゃなくて、生きる価値というか、そういうことを、なんとか遠まわしに(面と向かって喋っても伝わらないだろうから)、骨身にしみて分かってもらえるようにしなくちゃいかんのではないか。