悟りから程遠いわれわれ凡夫は、日々不要な悩みや妄想の中で苦悩するわけだけど、悟った人は、正しい思考、あるいは感情(感覚、直感?)を持っていて、煩悩から開放されている。。。とされる
で、人間って大まかに、思考と感情(感覚、直感)に分かれると思うのだが、悟った人は、正しい考えをするのか、あるいは、感情(感覚)すら正しいのか。。
なぜそう悩むかというと、、もし悟った人は正しい考え方ができるというのであれば、われわれ凡人も第3者に意見を聞いてもらって勉強することで、ある程度、自分の考えが矯正され、悟りに近づくことができると期待できる。一方、悟った人は正しい感情、感性を持つとなると、感情なんて勝手に湧き上がるもので、これを正しくしようとなると、並大抵の努力では変えられない。。
えらいお坊さんは、(たとえば蹴飛ばされたりしても)腹を立てないのか、、と考えると、やっぱりそんなことはないだろう。多分、悟っているというのは、心の中で湧き上がるいろんな感情や思考をあるがままに受け取りつつ、悟ったという経験に照らし合わせて、自分の行いを正してゆく能力を持っているということではなかろうか。。とも思うのだが。
その一方、悟った人は、感覚(感情、感性)のレベルでわれわれとは違う世界に住んでいるのでは?という仮説もある。これは例の般若心経にあるように、感覚世界(色)なんてええ加減なもの。。信じるほうがどうかしてるぜといった風に解釈されるわけですが、悟った人は、空の世界に生きてるとしたら。。もしそうだとすると、感覚を超えたというか、5感のレベルで違った解釈をして生きているのだとしたら、感情、感性のレベルですでに違っていることになる。。
般若心経が伝えるように、確かに、見えている周りは自分が解釈した結果であって、他人が見える物と一致している保障なんでない。。また、自分が見える世界は瞬間、瞬間のスナップショットであり、事態は変わり続ける。。事態をありのままに解釈するのは無理、、というのも理解はできる。。。けど、もし見えている世界は根拠が無い(そうは言ってない??)なんてーのが日常茶飯事だったら、世の中こんな風には回らない分けで、一致している保障はないけど、大抵の事は一致しているというのが事実なんだと思う。。だって、同じ信号を見て、ある人は、「これは進めと認識した」、別の人は、「これは止まれと認識した」といったレベルで認識のずれがあると、あちこちで事故になって車社会も成り立たない。同じお札を見て、これは高額だ、いや、安価だ等と言い出したら、市場経済も回らない。だからやっぱり、色は根拠なし!といっても、大抵は共通認識として一致していると考えざるを得ない。。のでは?? これは仏教の方便ってやつですか??
となると、悟った人も、やっぱり認識レベルは凡人とは変わらず、解釈や思考の段階で、チェックをかけて正している。。というのが実情ではなかろうか。。
と解釈してもどうなるものではないが。。
■070510 追記
秋月先生の、「誤解された仏教」という本を読んでいますが、禅の悟りとは、思考過程で得られるものではなく、直感で得られるものらしいです。思考を極めても悟りには到達できないということのようです。AならBでBならCという論理思考では到達できない境地なので、悟った状態も言葉では表現できないということでしょうかね。でも状態はずっとは続かないので、普段は普通の人間(経験だけを心に残して日々生きる。。)として生きているのか。。でも、悟りを通して自他の関係が変わると言う事も書かれており、経験はずっと残る。。らしい。。一体それは。。何。。