yzb’s diary

仕事と禅と病気(ガンサバイバーです)

節目休暇の終わりに。。

結構長くもらった節目休暇も明日で終わりとなった。最初は禅寺に行って宿泊坐禅会なんかに参加するつもりだったけど、諸般の事情で外泊はできなかった。日帰り坐禅会すら行かず、自宅でちょっと坐った程度だった。それでも少しの時間坐って、外に出て歩いていると、風がとても気持ちよくて、人の幸せって大げさなものではなくて、ちょっといい風が吹いて、気持ちいいな。。と思える、そんな事がすべてではないかと思う。もちろん、何かを頑張って成し遂げたり、成功したりするのはすばらしいことだけど、今、ここに生きてる価値というのがほとんどで、あとはそのおまけというか、スパイス程度なのでは?とも思う。生まれてきて、今生きているというありがたさを考えると、それ以外の悩み事(仕事のこととか、いろいろ)なんて、仔細な事でしかないのでは?とも思える。。生きてる事、今ここに存在できる事をありがたく思い、それを足がかりに日々を暮らしたいと思うのでした。

節目休暇では結局、近所をうろうろしていただけだったけど、、残る人生の足がかりをつかめたのかどうか、、かなり怪しい。。有効に休みを使えるよう、アクションプランをPostItに書いて貼り付けて、終わったものから下に移動させた。当初予定していた項目を結構こなした。。残ったのは坐禅とかそういったのだ。ああぁ。。

あと、、仕事をせずに毎日暮らしていると、ストレスがない反面、達成感がないというか、虚無感に苛まれるというか。。遊ぶということは、基本的に、目的や結果を求めないということなので、本質的に虚無な事なのかもしれませんが。。そう考えると、仕事の偉大さというか、分かりやすさを痛感した。でも、分かりやすさの罠もあると思われ、分かりやすいからそれに引きずられるというか、、度を越してのめりこんでしまうというか。。

■追記(2011/10/2)
今も時々休暇中の事を思い出す。何かと忙しい毎日なんだけど、時間を持て余した日々が懐かしい。あー休めたらなーと思うけど、実際あれだけ休んでみると、実はやりたいことなんてほとんど無い事がよく分かった(もっとクリエイティブな人は別とは思いますが、自分の場合は、十分に時間が与えられると、実はやることが特に無い)。
あれこれしたいと思うのは、忙しい毎日だから感じる事で、時間がたっぷりあると今度は時間を持て余す。。特にやらなきゃならない事なんて特にないというのが自分の生活の本質なのだ。だから、忙しい日々に文句を言ったりせず(だってそれ(=仕事等の自分の時間を埋める用事)以外にやることなんて特にないのだから)、たまの休みにあれこれやろうとじたばたせずに、俺は本質的に何もやることが無いのだと再認識できればゆっくりぼーっとできる。それは大事なことだ。やることながないのが真実で、なにかをやらなきゃというのは誤認識だから。。あぁそれが分かっただけでも、もてあました日々は、価値があったのかも。