yzb’s diary

仕事と禅と病気(ガンサバイバーです)

お茶を3年ぐらいやって気づいた事(お茶はノンバーバル)

これまでお点前の作法って、行儀の良さとか、見た目の綺麗さを求めていると思っていたのだけど、最近それはちょっと違うのでは?と思うに至った。それは、、お茶の心というのがあって、まぁよく和敬清寂と表現されるけど、それは単なる概念ではなく、多分そういう心の状態がリアルに存在する。それは澄んで落ち着いた心の状態。その境地に居る状態でお客様にお茶を振舞う。自分の落ち着いたお茶の心を点前を通して表現しているのではないかということ。点前とは体の動きを使ったコミュニケーションの手段。
多分それは言葉によらない、非言語コミュニケーションであり、マルチモーダルとか、ノンバーバルコミュニケーションと言われるもの。点前やできあがったお茶、お客さんを取り囲む茶室、庭、そういったもので茶の境地を表現しているのだろう。それを茶会に参加した人は、体を通して心で受け取る。そこには言葉は要らない。要らないというより言葉では表現できない。言葉にすると意味の大半が抜け落ちる。だから、、話す必要がない。そこに居て体でコミュニケーションすればいい。体によるコミュニケーションは言葉以上に饒舌なのだ。。多分。。

さらにここからはめちゃ主観なんですが、、禅って言語を拒否していて、多分言語化すると大半の意味が抜け落ちる。だから、、禅では「AはA」としか存在していなくて、言語で表すのはほぼ不可能で、言語が使えないから、「AならばB」とか、、論理(三段論法とかロジック)は使えない。それは茶道でいうと、型は型としてしか存在せず、それ以上の言いようがないとも言える。で、、点前には型と動きがあるとおもうのだけど、、型とは「Aである」と概念をあらわしており、型から型への動きは、「AならB」の論理の表現ではないかということ。たとえば、、入って礼をするという型、畳を移動して、点前座に着くという動き、座って柄杓を取るという動き、鏡柄杓という型、このように、型と動き、型、動きが、論理を展開して何かの意味を作りだしているのでは?ということ。。作りだしている意味って何?? 分からん。これは思いつきなんで、この思いつきがどこに帰着するのかは不明。