yzb’s diary

仕事と禅と病気(ガンサバイバーです)

考え方まとめ(自分が自分であるということとは?)

自分(私?)というものが存在するのかどうか。養老先生は、自分なんて居ないとNHKの対談で言っておられた。自分(私?自我?)というのは多分、精神活動の結果として表れる、現象でしかないということか。脳を解剖しても多分、自分を取り出すことはできない。ということで、、私とは多分、電気振動とか、刺激と反応の寄せ集め、そういった事なのかもしれない。かもしれないで、本当かどうかは分からない(ギリシャ哲学では、魂はイデアからやって来たとか?)。でもまぁ、自分という意識がどこから来たのか分からず、切り離して取り出せない限り、意識とは症候群というかシンドロームというか、存在確率というか分布というか、、おおよそあるようだけど、一体何なのかはっきり変わらずということだろう。雲のようなものか。
で、、意識というのは、常に変化する。気分がコロコロ変わる、言った、言わないで喧嘩になる、記憶はあいまい、自分の都合の良い様にねつ造する、、といった風で、実在性はともかく、少なくとも、確固たるものではないのだろう。
では確かなものとは何か??それは体だと思う(これは自分の主観)。心とはあるのかないのか分からないけど、体はあるだろう。少なくとも。だから、、生きてる実感というのははやり体から湧きあがるはずというか、生きてる事のよりどころはまずは体だと思う。あるいは、命、あるいは、呼吸、ホメオスタシス。。それこそが生きてるよりどころだと思う。
だから、、やはり、、まず体ありきとすべきではないか。体を十分に感じて、心を体に寄せるというか。引き寄せる、整えるというか。
人生の荒波を体というでかい船で渡っていく。船には心が乗っている。外は嵐だけど、船は安定して航行を続けている。。そんな気持ちで生きられたと思う。
さらに続けると、、体も変化しないか?というと、体を作る組織は入れ替わっている。外見の変化は緩やかでも、新陳代謝で入れ替わっている。だったら、変わらない自分ってあるの??何もない??ということになる。自分が自分たらしめるのは、遺伝子のコードしかないのでは??あとは、、ある程度の連続性を保てるための記憶とか刺激と反応のパターンとか。体も入れ替わり、心も存在があいまいなのだとすると、自分が自分であるのは、自分の特徴を表す遺伝子とか、あとは、他人との関係性とか、最後は情報でしかないのでは?? 自分が自分であると言える存在根拠(変わらない根拠)とは、自分が持っている自分の遺伝子情報や、人との関係性だけなのか。