yzb’s diary

仕事と禅と病気(ガンサバイバーです)

特に何もない日々だけどプチ凹む

仕事が大変だとかトラブルまみれだ!という時は重圧に負けないようにと、心の圧力も高まる。それは良いことなのかどうか分からないけど、少なくとも応力(押し返す力)が働いてバランスは取れている。最近は気の重いプロジェクトもそれなりに終わり、仕事は残った細かい後片付け程度になっている。日常生活も例によって、実家の両親に迷惑をかけ続けている件以外は特に目立った問題もない。
すなわち、、平穏な日々なのだ。しかし、平穏なら心も満ち足りているか?というとそうはならない。なぜなのか?それは分からない。しかし、とにかく何か柱というか、目指す物というか、方向性が定まらない。

課題指向(問題に背中を押されながらなんとか進むというスタイル)はしんどいけど分かりやすい。一方、特に目立った問題もない中で、じゃぁ次何するの?となると、はたと困ってしまうのだ。自分はどこに向かうのか。。こんな状態の時は小さな問題も大きく感じてしまう。大きい問題があると小さい事はどうでもよくなるのだけど、その逆だ。極端にいうと、何かして無理やり自分を遊ばせないと、何もしていない時は、なんだか気持ちも虚ろになって、何で生きてるのか何のために生きているのか俺?と思ったりもする。結局課題があってもなくても、心の不安定さは変わらないということ。大きな問題があればそれに心を集中できるが、次なにするべ?という状態は心がふらつく危険がある。。

もちろん、これまでにいろいろ仕事が大変だった日々に気づいた、「息をしている自分が今、ここにあるというだけで幸せじゃないか!」といった価値観とか、「残りの人生を、自分のため+人のために生きる」とかポリシィはあるのだけどそれを具体的に日々の生活にどう落とし込むのか??その筋道が立たない。突然やってくる虚無感を跳ね返すだけの力がない。。それは自分の行動力の不足が原因か?

最近気になっているのは、意志の力ということ。「気持ち」とか「心」は曖昧で次々に変わっていく捉えどころのないものだけど、じゃぁ意思は何なんだ?と。。意思って自分なのか? 仏教等では、「自分」は存在しないとかよく言われるけど、、「意思」って何?? ヒントは、アサジョーリ氏の「意思のはたらき」。。あたりか。。しかし絶版だ。(中古で千円ちょっとなので発注した。帯の「宇宙的な意志との合流」というのがなんだか危険な香りもするが。。安定した評価のようなのでまぁいいかと。)

■追記(110818)

この文書を書いて、しばらく経って気づいたのだけど、、虚無を感じる(あるいはそういう状態になる)のではなくて、自分の心の底にはそもそも虚無があるということ。その虚無を避けて、毎日を面白おかしく過ごしたいから、いろんな事に頭を突っ込んだり、いろんなものや本を買ったり、いろんな店で食べたりしているということ。虚無になるのではなくて、そもそも心に虚無が存在するのだ。。それは産業医が言った事とも合ってる。
せっかく落ち着いた日々で、普段見えない虚無が今見えているのだら、それを適当にごまかすとか、散らすというか、代替品で見えなくしてしまうのではなくて、何が虚無にさせているのかをとことん見つめるべきではないか?
虚無の先に何があるのかを見に行く。。全き人格への昇華には必要と思うが、多分それはある種の危険な行為で、さらに奥底のえらいものを見つけてしまう可能性もある。。ゲド戦記の影のようなものか。。

統合といっても難しいことはなくて、虚無の存在に気づいて認める、虚無に気持ちを置く。そっと(心の)手を当ててみる。。そんなことでいいのではないか。虚無を微細化してさらに掘り下げてるとか、力づくで無理やりどうこうしようと思うとよけいにこじれそうだ。

■追記(110818)
虚無な心との付き合い方。。
自分の奥底にある虚無を認める。出くわしてもごまかそうとせず、否定せずに、ただ受け入れる。
よしよしと言ってやる。慰めてあげる。心をそこにおいて寄り添う。冷えた虚無の心を暖めてあげる。
(心の)手を添える。虚無な心に耳を傾ける。何を言いたいのか否定も肯定もせず、ただ無心にじっと聴いてみる。。(多分何も語らないだろうけど)